狂うまで夢日記

人間不適格

命のフローチャート

ライフサイクルに、もしフローチャートがあったとして、それをめっちゃ簡単に言うとしたら、

「産まれる→育てられる→産む→育てる→看取る→衰える→看取られる」

だと思う。(看取るのタイミングはかなり不定期だが) 要するに、恩を受けて、恩を返して。

今、自分は、「育てられる」と「産む」の中間ぐらいに位置していて、そんでもって今「看取る」のタイミング。

 

おじいちゃんは怠けた人だった。一日中、リビングのソファに寝っ転がっテレビを見てた。お盆には一緒に甲子園見て、「今のバントは下手ね」とか、冬には箱根駅伝を見て「やっぱ東洋大は強かね」とかそんな他愛もない話をしてた。

別にそのグデっとした態度をダサいとか格好悪いとか思った事は一度も無くて、これがこの人なんだなあって思ってた。九州産まれ九州育ちの純九州男児だけど、別に男尊女卑の考えがあるとかでは無くて、かなりおおらかな感じの人だった。

 

おじいちゃんは凄く可愛がってくれた。自分が電車が好きだったから、良く近くの踏切まで連れて行ってくれたし、家にあったジブリやディズニーのVHSは殆どおじいちゃんが録画してくれた物をプレゼントして貰ってた。小学校に入ったら沢山遊園地とか、銭湯とか、料亭とかに連れていってくれた。

自分がご飯にお金を掛けるのは良い事だという考えは、このおじいちゃんから親父を通じて、自分に流れて来てるものだなあと思う。これが繋がりというものなのかな。

 

おじいちゃんは自分が産まれた頃には脳梗塞の後遺症で身体の左半分が自由に動かせなかった。歩くのはゆっくりだったし、車の運転も覚束なかったけど、本当にいろんな経験をさせて貰った。自分が高校生に上がったぐらいから体調を崩して、入退院が増えて、大学生になってお金と時間をある程度自由に使えるようになった時にはもうベットから離れられないようになってて、一緒に旅行とか、そういう風な恩返しは出来なくなってしまっていた。自分の両親には本気で恩を返さなければいけないなあと思う。

 

親父は自分が産まれた時に「もうこれで大丈夫だ」「命は繋がった、死ぬのはもう怖くない」と思ったらしく、その話を聞いた当時小学生ぐらいだった自分は「変なの」と思った。最近話した時には「爺さんがゆっくり枯れるように死んでいくのを見て、また死ぬのが怖くなくなった」って言ってて、今回は少し気持ちが判った。

 

あんまり、自分は人の死に感傷的になりきれんタイプの人間で、それは自分がこれまで看取って来た人達の大半殆どが、ゆっくり死んでいくので、死ぬまでに心を整理するだけの猶予期間があったからかもしれないけど、「ああ、死んでしまったなあ」「今まで痛かったろう辛かったろうけど、死後の世界では安らかであるといいなあ」ぐらいにしか思えんで、まあ今回もそう。(しんどいぐらい泣いて、斎場の人に「親族でしたっけ?」って聞かれた事もあったけど)

 

今回、おじいちゃんは消極的安楽死の選択をして、胃瘻や酸素マスクの設置とか心肺蘇生は一切行わなかった。理由は「痛いのは面倒だから」滅茶苦茶に怠けた人だ。選択を聞いた時「アホちゃうか?」って思ったけど、まあ結果良い選択だったのかなあとも思う。よく考えたら自分も必要以上の延命は望まないだろうしなあ。

 

「看取る」のサイクルを何回か経たわけで、おまけにボチボチ自立していかないといけなくなった時に、いつか結婚出来たらいいなあ、いつか子供を授かれたらいいなあ、とは思ってるけども、まだまだ自分に子供を育てていけるような器や根性、何もかもが欠けてると思う。まだまだ「産む」というプロセスに入るには早そうな気がする。

 

死というのは、当人だけでは無く、周りの人にとっても物凄いイベントで、大きな影響を与えがちだと思う。一年前、マジで病気のドン底に居て、本当に本当にしんどくて、なんで俺なんかが生きてしまっとるんだ〜〜って思って日々鬱屈していた時に骨を拾わせて貰って、「命ってなんなん?」って思ったし、命という概念に顎をぶん殴られた気持ちになったし、その人のお父さんと喫煙スペースで話してる時に(やっぱ煙草ってコミュニケーション道具っすね)、ひょっとしたら生きとる事が何より大切なんかも知らんと思った。ちゃんと心の中で手を合わそうって思ってたけど、気付いたら一年をちょっとだけ過ぎとった。南無南無。何だか人の死を同情の道具に使っとるみたいでアレやけども、自分の中では今こうして五体満足でいれるのはお陰様だと思ってる。「看取る」というサイクルは本当に大事な事です。

 

俺は今年も生きるぞ!!死んだ人達の分までなぁ!!!うぉーーーーーーー!!!!

 

北陸のマジで美味い寿司、また食いてえ

 

こうやってブログを書くのもまた、供養の形。